本因坊

囲碁の慣用句について

囲碁の「家元」と本因坊戦の起源

家元の誕生 囲碁界における「家元」という制度は、室町時代末期に誕生しました。戦国時代には、各地の有力大名や寺院が、囲碁の名手らを保護し、家臣や庇護下におさめました。こうした大名や寺院が、自らが庇護する囲碁名人を「家元」と呼び、その弟子や家来に囲碁を教授したり、試合の場を提供したりするようになりました。 徳川家康 江戸時代になると、織田信長や豊臣秀吉によって保護されていた囲碁名人の多くが、徳川家康に仕えるようになりました。家康は囲碁を好んでおり、碁所(囲碁の最高位)にも就任していました。家康が保護した囲碁名人の中で、特に有名なのが、佐々奉政・林利玄・本因坊算砂の3人で、彼らは「碁界の三傑」と呼ばれました。 本因坊戦の起源 その後、碁界の三傑の一人である本因坊算砂が、家康の勧めにより、囲碁大会を主催するようになりました。この大会は「本因坊戦」と呼ばれ、毎年開催されるようになりました。本因坊戦は、江戸時代から現代まで続く、囲碁界で最も権威のある大会となり、囲碁界における「家元」の地位を確固たるものにしました。
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囲碁の用語「外家」とは?四家元に属さない棋士について

-外家の歴史と変遷- 囲碁の「外家」とは、日本棋院の四家元(本因坊、名人、天元、棋聖)に属さない棋士のことです。外家の歴史は古く、江戸時代に幕府公認の家元以外の棋士が「外様」と呼ばれたことに由来しています。明治時代以降、棋士の組織化が進み、外家の地位も確立されていきました。 近代以降、外家は「棋聖戦」などの非公式戦で活躍しましたが、公式戦では四家元に大きく水をあけられていました。しかし、1950年代に「碁聖戦」が設立されると、外家の棋士がタイトルを獲得するようになりました。このころから外家の棋力が四家元に接近し始め、1970年代には外家の芮廼偉が名人位を奪取し、外家の歴史に新たな幕を開けました。 近年では、日本棋院の組織改革により、外家は序列上四家元に次ぐ「準四家元」という地位が与えられています。また、国際的な大会でも外家の棋士が活躍するようになり、外家と四家元の垣根はますます曖昧になりつつあります。