囲碁の「準名人」
将棋と囲碁が大好き
先生、「準名人」って囲碁の用語で、江戸時代には八段のことをそう呼んでいたそうですね。
将棋と囲碁が大好き
その通りだよ。八段が名人候補だったから、「準名人」と呼ばれていたんだ。
将棋と囲碁が大好き
つまり、名人になれる実力のある棋士だったということですか?
将棋と囲碁が大好き
そうだね。八段は名人になる一歩手前の高い段位だったということだよ。
準名人とは。
江戸時代において、囲碁で八段のランクを「準名人」と呼んでいた。
準名人の起源
囲碁界において、「準名人」という称号が誕生した背景には、興味深い歴史があります。この称号は、名人戦の予選を勝ち抜いたものの、名人位獲得には届かなかった棋士に対して授けられるものでした。
準名人という呼称が初めて使われたのは、1924年の「第1回名人戦」です。この名人戦では、後に名人となる本因坊秀哉が優勝を収めましたが、準優勝の坂田栄男に対して「準名人」の称号が与えられました。
その後、準名人戦は名人戦の予選大会として毎年開催されるようになり、優勝者には「準名人」の称号が与えられる伝統が確立しました。この称号は、将来的に名人位を狙う有力棋士の登竜門となり、タイトル戦への挑戦権がかかった重要な大会として位置づけられるようになりました。
江戸時代の八段と準名人
囲碁の世界において、「準名人」という称号は、長い歴史を持っています。江戸時代には、名人位に次ぐ地位として「八段」という称号が設けられました。しかし、この八段の地位を巡っては、当時から議論がありました。
ある意見では、八段は名人と同じく、一つの称号であるべきだと主張されました。一方、もう一つの意見では、八段は単なる段位であり、名人とは別の称号であるべきだとされました。この議論が続くなかで、八段と名人の中間に位置する「準名人」という称号が作られました。準名人は、名人への登竜門として、また八段の最高の栄誉として位置づけられるようになりました。
明治時代の棋士制度
-明治時代の棋士制度-
明治時代には、囲碁界に近代的な制度が導入され、囲碁の棋士は明確な階級制の下で組織されるようになりました。最高位は名人で、次いで準名人、四段、三段、二段、初段と続きます。これらの階級は、棋力によって決定され、昇段には厳格な試験制度が設けられました。
この制度は、囲碁の普及と発展に大きな役割を果たしました。棋士の地位が明確になり、彼らが高い社会的地位を認められるようになりました。また、昇段試験によって棋士のレベルを維持することができ、囲碁界全体の質の向上につながりました。さらに、この制度は院生制度や段位別トーナメントの導入にもつながり、囲碁界の近代化に大きく貢献しました。